りんごのはなし
いつもと変わらない一日の暮れに、病室の扉をノックする音が響く。
夜の巡回にはまだ早い。
こんな時間に誰が、何の用があってわたししかいない病室へ来たのか。
わたしはどうぞ、とぶっきらぼうに答える。
聞いたことのある声が私の名前を呼ぶ。
驚いて顔をあげると、かつてのルームメイトが立っていた。
「まさか香子ちゃんが入院しているとはな」
「……私も驚いたよ。入院する事になるだなんて思わなかった」
右腕をさすりながら答える。
これは一之瀬の暗殺に失敗した時の事の傷だ。東に投げられたナイフは思った以上に深く刺さっていたらしい。
深くと言っても神経に障害が残るほどではない。
縫う必要が生じる程度だ。
しかしそれに加えて途中で刺さったナイフを抜いたのがいけなかった。
失血もあって貧血気味だから入院です、と。
そういう訳で、わたしは10年黒組で初めての入院患者となったのだった。
首藤はわたしが入院している事を走りから聞いて見舞いに来たらしい。
「香子ちゃん、林檎買ってきたけど食べるか」
いらない、と言いかけて、小腹が空いていたのに気がつく。
わざわざ買ってきてもらったのだし食べたほうがいいだろうか。
「気持ちは嬉しいが、わたしは皮を剥けないぞ」
「ワシがやるよ」
首藤が胸を張ってみせる。
見舞いに来てもらった上に林檎の処理までやらせていいものだろうか。
少し迷ったが、腕を怪我をしているわたしにはどうやっても林檎の皮は向けない。
諦めて、
「頼めるか」
「あい任された」
結局、首藤に頼むことにした。
首藤は馴れた手つきで林檎を八つ切りにしていく。
芯を取り除いて、残ったままの皮にVの字に切れ目を入れて。
片側の皮と一緒に落として、っておい。
「おまえは何をしている」
「何って、うさぎさんりんごをちょっと」
「兎?」
「ほら」
そのうさぎさんりんごとやらが皿ごとわたしの前に差し出される。
少しだけ残った、いや残したのか。
一部分が欠けた皮つきの林檎は、したの方がへこんでいるのも相まって兎に見えなくもない。
「香子ちゃんはうさぎりんご見るの初めてか」
「初めてだ」
わたしは間髪いれずに答えた。
「作ってもらった事は?」
「ないな」
わたしが物心ついた時には、既にホームの生活が始まっていた。
両親の顔はおぼろげにしか覚えていない。
ホームで出た林檎は全て皮を剥かれた後だったし、親に作ってもらう機会もなかったから、うさぎさんりんごだなんて見たことも聞いたこともない。
そういえば入院したこともなかったから、こうやって見舞いに来てもらうのも初めてか。
「……そうか」
首藤はなにやら考え込んでいる。
沈黙に耐えきれなくなったわたしは林檎に手を出した。左手でおそるおそる掴んで口に入れる。
ちょっと酸味が強い。ホームで食べていた林檎と比べると食感も違う。ホームで食べたのは冬の事だったか。今は初夏だし、林檎の種類からして違うのかもしれない。
少しの間の後、首藤が口を開いた。
「香子ちゃん」
「何だ」
「ワシで良ければ、またこうやって林檎を剥きにくるぞ」
首藤の目には心配の色があった。
「……ありがたいけど、遠慮しとく」
わたしはお前にそんな目で見られたいんじゃない。
それからはずっと取るに足らないような話ばかりをしていた。
首藤が寮長を引き継いでからの寮の話とか、定期テストで思わぬ人が高得点をとったとか。
くだらない話でも面白そうに聞こえるのは首藤の話術が巧みだからか。
取るに足らない話ばかりしているのに、少しだけそれが楽しく感じられて、時間はどんどん過ぎていく。
時計が六時を回ったところで看護師が巡回に来た。
首藤は座っていたパイプ椅子から立ち上がる。
「そろそろ帰るかの。晩ご飯まだだし」
「気をつけて」
「時間の割に明るいみたいだし大丈夫じゃろ」
言われて窓の外を見る。
確かに六時過ぎとは思えないほど外は明るかった。
陽の光が強いのだ。
日が傾いても、強い光がそこかしこで乱反射して至る所へ入っていく。
結果として日なたはおろか、陰にあたるところまでも時刻に見合わない明るさになっていた。
「そういえば、もう六月も終わりか」
考えてみれば、わたしが一ノ瀬に仕掛けたのは定期テストの期間だったから、かれこれ一ヶ月近くは病院に留まっている計算になる。
そろそろ退院できるだろうか。
「……夏至はこの前過ぎたからな。これからどんどん日の入りは遅くなる」
「もう少ししたら、夏が来るのか」
首藤はぼんやりと窓の外を見ている。
その横顔はいろいろな感情がない混ぜになっているように見えた。
夕暮れか夏か、あるいはその両方に、何か思うところでもあるのだろうか。
「なぁ首藤」
「なんじゃ」
「お前はわたしみたいに怪我するなよ」
首藤が不思議な顔をしてこっちを見る。
「なんでまた。善処はするが……」
ごもっともな意見だった。
わたし自身も何故それを言い出したのかよく分からない。
「何となく、嫌だと思って」
首藤が怪我をして入院する。
その頃にはわたしはもう退院しているだろうから、わたしではない誰かが、首藤に林檎を剥いてやったり、退屈を紛らわせる話をするのだろう。
それは病院の看護師かもしれないし、同時期に入院した黒組の誰かかもしれない。それが何となく嫌だった。
何故嫌だと思ったのかはよく分からない。
「まぁよく分からないが、それじゃあ」
「すまないな、帰ると言ったのに話しかけたりして」
「いや全然。楽しかったぞ」
言いながら首藤は今度こそ帰って行った。
部屋にはわたしと、首藤が剥いた林檎が皿に少しだけ。
残っていた林檎を口に含む。
温くなっていて、あまり美味しくは無かった。
初のすずこうSSでした。タグをちまちま入れつつ、ちょっと表現変えてみたりしてます。
pixivに上げた時はとにかく時間がなくて…… もうちょっと書く速さあげられたらいいんだけどなあ。
かなり初期に書いた話で、この頃は再会も定かじゃなかったからか 今見返すと無理矢理香子ちゃんを病院に留めた感が。