香子「7月16日」
このごろの朝特有の冷気で神長香子は目を覚ました。この時期は肩まで布団をかけていても、朝方には急激に冷え込んで薄い掛け布団一枚では物足りなくなってくる。そういったことが起こらないよう、昨日は戸を全て閉めきってから布団に入ったはずだった。
どこから入ってきたのだろうかと枕元の眼鏡をかけてきょろきょろとあたりを見回す。どうも南の方から入ってきているらしい。勝手口へと繋がる襖がわずかに空いている。
香子はもそもそと彼女にしては珍しい緩慢な動作で布団から這い出すと台所のほうへと歩いて行った。
「起きていたのか」
「ああ、おはよう香子ちゃん」
台所では香子よりも早く起きた涼が朝食の準備をしていた。
涼はくるりと香子の方を向いて言う。
「もう少しで出来るぞ」
「何か手伝うことは?」
「食器並べくらいかの」
香子は涼の隣に立って、きのう洗って水切りにかけたままだった食器類を取り出して机にならべはじめた。棚から箸やコップを出してそれらも机に並べる。
どこに何があるかは既に把握していた。皿や箸だけじゃなく、布団のしまってある位置とか、その布団の手入れに使う布団たたきの用途とか。それらは全部同居人の涼に教えて貰ったものだ。
今年で香子が涼と一緒に暮らし始めて三年目になる。
こうなればもう、慣れたものだ。
朝食が終わると二人とも夕食までは自由に過ごす。
この時間、涼はよく買い物に行く。客がまばらなうちに外出を済ませたいという理由からだ。
彼女の体を考えると夕暮れ時に行ったほうが怪しまれないと香子は思うのだが、それはそれで同年代に見える少女たちからの視線が痛いぞ、と涼に笑って返されたことがある。
香子の方はというと、日中はもっぱら勉強をしている。中古で買った問題集をやってみたり、辞書を片手にネット上で公開されている論文に四苦八苦したり。
表向きはやっておいて損は無いからと言う理屈だが、涼はゴミ箱に捨ててあったくしゃくしゃの英文の羅列の束を何度か見たことがある。責任感の強い彼女のことだから、自分のバイト代だけでは足りないと 踏んで試行錯誤しているのだろうと涼は推測していた。
今日もいつもと同じような半日だった。
違う事と言えば、涼の外出時間がいつもより長いことくらい。台所の机の上に残してあったメモが夕方まで帰らないと告げていた。
涼はこの時期、長く家を空けることが多い。
彼女の過去を考えればある種当然のことだったから、香子は何も言わずにいた。
バイトの時間を考えるに入れ違いになるだろうと考えて、香子は涼の残していったメモの下に付け加える。
『18:00~21:00 バイト』
彼女らしい簡潔なメモだった。達筆で、用件しか書いていないメモ。
もう一度読み返して誤りのないことを確認してから、香子は出かける支度を始めた。
香子がバイトから帰ると、涼は縁側で寝転んでいた。
側には団扇が投げだされている。
「扇風機、出せば良かったのに」
香子は涼と少し離れた位置に座り込んだ。外に面しているというのに、風もなくじっとりとしている。
気温はそれほど高くないが、風がほとんど無いことと、それに湿気の多いことが熱帯夜に拍車をかけているようだった。今夜は寝付くのに苦労しそうだ、と香子はぼんやり思った。
涼は香子に気がつくとのそのそと香子の側へ寄ってきた。とびきり暑い日の就寝用にしている、真っ白で薄手の浴衣を着ている。
「……おかえり」
「ただいま。風呂、入ったのか」
「……うん」
気怠そうな返事だった。
「じゃあ私も」
そう言って香子が立ち上がろうとした瞬間だった。
「待って」
声から一拍おいて、手が何かに引っ張られる。見ると、立ち上がろうとしてついた手の指が三本ほど控えめに握られていた。引き留めた涼は何も言わずに黙っている。
うつむいているために表情は分からなかったが、それでも香子は尋常では無い涼の様子に気がついて、もう一度縁側に座り直した。
香子が縁側に座りなおすと涼はさっきよりも近くに来てぴったりとくっついて座った。
しばらくしてから、力なく香子の肩にしなだれかかる。
肩口で揃えた髪がさらりと揺れて、風呂あがり特有のせっけんの匂いがたちのぼる。
触れている所から少し高めの体温が伝わってくる。
せっけんの匂いと相まって頭がくらくらする。
「……暑い、離れろ」
香子は少し強めに涼を突き飛ばした。
今日の日付、机上のメモ、そしてそれらから連鎖して思い出される、以前本人の口から語られた彼女の過去。今日に限っては、そういうことをするのがはばかられた。
突き飛ばされた涼は少しだけ迷ってから、決心したように香子に話しかけた。
「香子ちゃん」
「……なんだ」
「こっち向いて」
言葉どおり振り向いた香子の目の前に、涼の顔が迫ってきて。
ようやく、香子は誘われていたことに気がついたのだった。
涼の手を引いて縁側から隣の部屋に移る。ご丁寧に布団が敷いてあるのを見て、香子はつくづく自分の至らなさが嫌になりそうだった。
襖をすべて締めきると風の出入りが一切無い空間が出来上がる。
行き場の無くなったせっけんの匂いと、かすかにする涼本人の匂いが部屋中に充満して、歯止めがきかなくなりそうになる。そうならないよう慎重に涼を布団の上へ押し倒して、着物の帯を解いた。
下着も全てはずすと着物同様に白い肌があらわになる。
その白い肌に、鎖骨の間から腰にかけてゆっくりと順々にキスをする。焦れったそうに涼が体をこわばらせた。
一通りへその位置まで下がったところで、唐突に香子が聞いた。
「明日の予定は?」
「……無い、が、ッ……?!」
答えようとした声が途中で途切れる。
見ると、香子が首筋に噛み付いていた。少しの痛みと背筋にはしる快感がない交ぜになって襲ってくる。
そして口をつけたまま、少し力をいれてうすい皮膚を吸い上げた。
思わず声をあげそうになった涼が両手で口を押さえる。それでも堪え切れなかった嬌声があたりにこぼれて香子の耳にも届く。口を離すと首筋には真っ赤な痕が残った。
「……明日は良くても、明後日はどうするんじゃ」
先ほどの質問の意図に気が付いた涼が咎めるように言った。確かにこの位置では、痕が消えるまで外出は難しいだろう。
「そうなったら、私が行くよ」
そっけなく香子が返して、うやむやにするように一度愛撫を再開する。
痕が消えるまででいいから家にいて欲しいと、面と向かっては言えなかった。
「……もう、大丈夫?」
幾度目かのキスをしてから香子が遠慮がちに聞いた。涼はこくりと小さく頷く。
太腿からそこに手を滑り込ませる。
濡れているのを確認してから、押し当てた指を差し込んだ。
「……っ……!」
差し込んだ瞬間涼の体が跳ねる。なかで指を動かすたびに、またちいさく跳ねる。
涼は声を殺そうと、必死に口元を袖で押さえたまま快感に耐えている。
普段決して見せない余裕のない表情と熱を持った甘い吐息が、たまらなく香子をぞくぞくとさせた。もっともっと、余裕をなくしたくなってしまう。
指を動かす速度を速める。声が断続的になって、徐々に体が跳ねる間隔も短くなっていく。
そして最後に深く抉るようになかを擦ると、涼の体がひときわ大きく跳ねた。
翌朝、涼は香子に体を揺すられて飛び起きた。飛び起きたら間髪いれずに服装を注意されて、見ると格好は前をはだけたままだった。あのまま眠ってしまったらしい。
昨日の夜のことを思い出したら妙に気恥ずかしくなってしまって、涼は掛け布団から頭だけをだして香子に話しかけた。
「……おはよう」
「おはよう。昨日の今日で疲れてるだろうに、起こしてすまない」
何事も無かったかのように挨拶を返してくるどころか身を案じられてしまった。
香子の、さらっとこういう事を言える所を涼は末恐ろしく思っている。
「ん。……わざわざ起こすって事は、何かあったかの」
こほんと一つ咳払いをして、心の平静を取り戻すよう努めた。
「お前に渡したい物がある」
涼の目の前にラッピングされた正方形が差し出される。
大きさとしては、涼の片手に乗せて少し余るほどの包みだ。
「これは?」
「空けてみてくれ」
促されて涼は慎重に包みを開いた。
中身は真っ白い正方形の箱だった。包装紙を開いたときのようにまたゆっくりと蓋を開けると、中に入っている物が古い蛍光灯の明かりを反射して鈍く光る。目を細めて見ると、細長いチェーンがそれからのびているのが分かった。
それは懐中時計だった。
裏蓋には三日前の日付が刻まれている。七月十四日。涼の誕生日。
「香子ちゃん、これは」
「いろいろ悩んだんだ。どうせなら使い続けられるものを贈りたかった。……普通の時計なら着物に合わないけど、懐中時計なら着物にも合うだろ?」
涼が今までの長い生涯をどのように思っていたかは香子も重々承知していたし、これからも続いていくであろう長い時間をあまり快く思っていないことも知っていた。
そんな彼女に時計を贈るという行為の残酷さも考えられなかったわけではない。
だからこそ当日には渡せずじまいで、銀の懐中時計は箪笥の底、家主の涼すらも知らない所で三日間も眠っていた。
そして、悩んだ末に香子は涼にこれを贈る事に決めた。
かつて自分が状況を受け入れた上で脱走を謀ったように、彼女にも状況を受け入れた上で前向きに生きていって欲しかったから。
いつか、自分がいなくなったとしても。
「ちょっと手間はかかるけど、手間さえかければ長くもつから」
それから香子は懐中時計の扱い方にについて淡々と述べた。
懐中時計は普通の腕時計と比べて扱いが難しい。
毎日巻いてやらなければ普通に使うことも出来ないし、つくりが細かすぎて、腕の立つ修理屋に持って行かないと修理もままならない。汎用パーツが使えないから修理代も高い。湿気にも弱いから、気にかけてやらないとすぐに壊れてしまう。
その代わり、きちんと手入れさえしてやれば普通の時計よりもずっと持つ。そういうつくりなのだ。
伊達にアンティークとしての一ジャンルを打ち立ててはいない。
涼は香子の説明を静かに聴いていた。
説明が終わった後で、涼は香子に一つだけ尋ねた。
「それじゃあ香子ちゃんは?」
「わたし?」
何か説明として至らないことはあっただろうか。
香子は箱に同封されていたマニュアルに手を伸ばす。
「時計については理解したが、香子ちゃん自身は一緒にいてくれぬのか」
伸ばした香子の手が止まった。
涼の声色はいつものようにさっぱりとしていた。
昨晩のようなだるさは微塵も無く、それどころか、どこか弾んでいるような気さえしてくる調子だった。
香子は直感する。彼女は自分がなんと返すか察しのついた上で、直接わたしの口からそのことばを聞きたくて質問を投げかけていると。
現に目の前の少女は、口の端を若干つりあげて香子の答えを待っていた。
「……私が」
「うん?」
涼はにやにや顔を隠そうともしない。
「私が死ぬまでは、ずっと一緒にいてやるよ」
それを聞いて涼はぱっと顔を輝かせて香子に抱きついた。心の中で我ながら気障な事を言ってしまったと後悔の念が首をもたげたが、香子は顔に出さないで涼を抱きとめる。
何の気なしに右手で撫でた頭は、いつもより小さな感じがした。
「今更だけど、涼、誕生日おめでとう」
名前を呼ばれたからか、それとも別の理由からか。
香子の腕の中にいた涼は、また一段と笑顔をかがやかせて、抱きつく腕に力を込めた。
すずこう(すず)SS第二弾。で初エロ。エロ要素は薄いけど!
自分なりに色々解釈とか彼女らの幸せとかを願って詰めた結果こういうSSになりました。
その思いの(暑苦しさとか重さが)伝わったのか、Twitterで何回か宣伝してもらえました。結果作品タグ+こうすずタグしかつけてなかったのにも関わらず多くの人に見てもらえて嬉しかったです。
あとその宣伝を辿っていったら香子ちゃん格好いいって言ってたツイートを発見して小躍りしました。
流れが流れなだけに彼女がヘタレ扱いされるんじゃないかと半ば心配していたのです。