此岸の彼岸
1.
ようやく辿りついた自宅の玄関で、涼はゆっくりと腕から下げていたレジ袋を下ろした。
いくら酷暑といっても、少ししか離れていないスーパーまで行くのにここまで苦労している今の自分には笑うしかない。
買う量はむしろ減ったのになあ、と独りでごちたところで、その愚痴を受け止めて何か言葉を返してくれる人もなかった。
玄関も依然自分の靴しか出ていなくてすっからかんだ。
しかし現状が不幸せかと尋ねられたら、恐らく涼は即座に首を横に振るだろう。
寂しくないと言ったら嘘になるが、寂しいと言っても嘘になる。
現状はそんなところである。
買ってきたものを暑い暑いと言いながらも冷蔵庫に全て放り込んでから、涼は室内着に着替える。この僅かな時間の中で自分は一体何度暑いと言っただろう、とくだらないことを思案するのもひとえに話をする相手もいない故だった。
この体たらくをあの人が見ていたら、きっとうるさいの一言でも飛ばしてきていただろう。
自分もうっすらと、頬に汗をかきながら。
そこまで考えて、涼はひとりでに笑い始めた。
何度目か既に数えるのを止めていたヒグラシの鳴く声も、夜更けに聞こえてくるスズムシの声も、今は笑いながら聞いていられるようになった。
思い出というのはとかく美しく不変のもので、鬱陶しいと感じていた思いもよらぬものが突然にスイッチとして機能して、その思い出を再生し、度々涼の心を慰める。
あの時の香子ちゃんはどうしていたっけかなあ、という塩梅だ。
こうなると今の寂しさはただの寂しさではなく楽しい時間を過ごした分の代金のように涼には思えてきて、随分遅い徴収だなあと独りでぼんやりごちつつも、徐々にまあこのくらいの代金なら払ってやりましょうかという気にさえなってくるのだった。
思い出に限らず、良いものは高くつく。
生半可な代金では買えやしないのだ。
あまりに暑いので、縁側でさっそく買ってきたアイスを食べることにした。
室内着として薄い浴衣を一つ着て、袋ごとアイスを持って縁側へ喜び勇んで来たものの、頭上では未だカンカンに日光にが照っている。その暑さに恐れをなした涼はすぐに予定を変更して、結局少し引っ込んだ所で食べることにした。
乱暴に袋を開くとすぐに目当てのアイスが出てくる。
それを勢いよく引き出して口にくわえると、なんとなく猛暑が和らいだ気になった。
そのままアイスにかじりついてぼんやりと考え事をしているうちに、涼の目は次第に畳の隅へ吸い寄せられていく。
そこには一片の染みが付着していた。
これは何でついた染みだったかと、涼はまた過去に思いを馳せる。しばらくしてこれは確か同じように暑い夏、香子と同じようにアイスを食べていて垂らしたときのものだと合点がいった。
あの時染みを作ったのはどっちだっただろうか。真面目なようで案外抜けたところのある彼女だったか、それともうっかりしていた自分だったか。
段々こんなことも忘れかけている自分の方だった気がしてきて、とりあえず自分のせいということにして手を打ちましょうか、と涼は空いた片手で自分の膝頭を叩いた。
床から目を離して庭先へ目をやると、今度は息を潜めるように茂る彼岸花たちが目に入る。
彼岸花は一度葉を落としてからでないと花をつけない上、開花の少し前まで茎も見当たらないような花なので、秋前の今頃はこうやって葉も茎もない寂しげな佇まいになってしまうのだった。真っ赤な花を咲かせ、他と違い、冬に葉を茂らせ夏に葉を枯らすなど何かと目立つ彼岸花だが、実はこういった側面も持ち合わせている。
それでも秋になればあの真っ赤な花を咲かせるだろうから、あと数週間もすれば庭先もきっと賑やかになるだろう。
始めは一輪だった彼岸花も丁寧に世話をしてやるうちに少しずつ増え、今では秋ごとに、中庭へ彼岸花がずらりと並ぶという不思議な光景が広がるようになった。
これは手間をかけた甲斐があったと、涼は秋が訪れるたびにこっそり満足げに思っている。
2.
最初の鉢を涼に送ったのは、あの人の死を知った勤め先の人だった。
まだ若い人で殆どあの人と面識もなかったように思ったのだが、あちらさんはあの人を覚えていたらしい。
どこから聞いてきたのか、葬儀をとっくに終えた後、鉢を携えて家に来て言うことには
あの人にはお世話になりましたが、あの人は私が恩を返す間も無く逝ってしまわれた。
あの人のために何かしてやりたいが、自分はこの通り若輩の身なので大きな事は出来そうにない。
ならばせめて、これを貴方に渡そうと思う。
とのことだった。
涼は始めどこまで自分たちの事を知っているのだろうかとその若輩者を訝しんだが、結局その人に他意はなかった。ただ死人を弔うのならば彼岸花がいいだろうとの短慮でそれを選んで持ってきたらしい。
普通有毒の花、目立つ花は葬儀の際忌避される。毒を根に持ち、血のように赤い花を咲かせる彼岸花を贈るなどもっての外である。
しかし四十九日もとうに過ぎた後だったし、何より相手が若いため、単に知らないだけの可能性もあるだろうと考えて、涼は畢竟その差し出された花を受け取ったのだった。
持ってきたのが他でもなく、あの彼岸花だったからというのもある。
その人が帰った後、どうせなら狭い鉢なんかよりも広い庭先の方が花達にとっても具合がいいだろうと考えて、涼は庭先にそれを植え替えた。
昔取ったなんとやらで植え替えには大した苦労もなかった。昔の趣味がこんな所で役に立つものかと思いながら、涼は淡々と作業をしてゆく。
植え替えをしている間、涼はこの運命じみた奇妙な巡り合わせにずっと笑っていた。
喪中の家に彼岸花を持ってくる人間など、長い時を生き、誰よりも葬儀に参列していると自負していた涼の周りにもそうそう居なかったのである。
3.
彼岸花と言えば、涼はひょんなことから、あの人にも大切な故人がいたという話を聞いた事がある。
当時は出会ったばかりで彼女の過去も知らなかったから、あの時何故彼岸花が彼女の象徴とされたのか、直接の理由はよく分かっていなかったのだが、その話を聞いて、なるほどそれは香子ちゃんにぴったりだと、涼は鳰の花選びに感心した覚えがある。
それを聞いてからというもの涼は何となく懐かしくなってしまって、もしや自分の退けたあとも花は飾られていたのだろうか、なら自分に贈られた花は何だったのだろうかと俄然気になり始めてしまった。
一度気になり始めてしまってはどうしようも無かった。結局好奇心には勝てず、次の日涼は思い切って、久方ぶりに鳰へ連絡を入れた。
走りさんですか、少々お待ち下さいというマニュアル通りの返答と少々の待ち時間ののちに電話へ出た彼女はなにやらそこそこの役職についていたようで、用件を伝えるとアンタそんなことのために電話して来たんスか、こっちは忙しいんスよ、と開口一番に呆れられてしまった。
それでも仕事に忠実な彼女は一旦電話を切ってから比較的長話の出来る夜に折り返し電話を寄越してきて、涼はそこで初めて、自分に贈られた花が赤色のチューリップであることを知ったのだった。
「ほお、チューリップ」
鳰から自身を象徴する花が何か聞いた涼は、興味深そうに呟く。
「チューリップの花言葉は『恋の宣言』ッス。あと首藤サン、アンタ出身新潟っしょ。県花県花」
興味を示す涼とは裏腹に面倒くさそうに返す鳰だが、涼は鳰が自分の出身地を覚えていたことに驚いて目を丸くした。
「……! 覚えていたのか」
「……ええ、まあ」
鳰は歯切れの悪そうに答える。
「……実はウチ、はじめは首藤サンのこと全てデタラメだと思ってたんスよ。でも、デタラメなのは経歴だけでしたねェ」
「ほう……?」
「今は疑って悪かったなあと思ってるッスよ? でも普通、あんな経歴誰も信じないっしょ。おまけにその喋り方って! それキャラ付けかいー、って思うっしょお、普通!」
「……人を見かけで判断するからそうなるんじゃ」
涼は電話越しの鳰へ言い聞かせるように言った。
鳰が言っているのはミョウジョウ学園へ提出した書類の事だろう。提出物の中には当然履歴書もあったのだが、涼のそれにはおよそ十代の女が受けられるような簡単な仕事は殆ど載っていなかった。
最低でも十年は仕事をしていないと引き受けられない仕事や取引先ばかりである。
涼が見かけ通りの年齢では無いことを知った今ではそれも当然のように思えるが、事情を知らない人間がそれを見たら、書かれていることが全て本当だとはまず思わないだろう。
「たははー、ッスねえ!」
さながら威嚇をするように会話を進める涼には目もくれず、鳰は軽快に涼の皮肉を笑い飛ばす。
こういう肝の据わった所はあの頃――黒組の頃からまったく変わっていなかった。
電話越しの変わらない鳰に涼は少しの安心感を覚えるが、それを打ち砕くように、鳰の側でメールの着信音が鳴った。
「あ、ちょっとメール来ちゃったんでそろそろ……他に何か聞きたいことあるッスか?次までに調べとくッスよ」
思いも寄らなかったことを急に尋ねられて、涼はしばしの間考え込む。
しかし悩んだ所で急に名案が浮かぶわけもなく、悩んだ割に、結局無難な事を尋ねることにした。
「あー……今…………走りの方はどうしてるんじゃ」
「……またえらくバアさんみたいな事聞くッスねえ」
涼の要望を聞いた鳰はうっかりとそう漏らす。
それをきっちりと聞いていた涼はその通り婆さんだからな、と笑って返した。
涼が笑って返していた間にも、電話の向こうからは早速パラパラと紙をめくるような音が聞こえていた。
しばらくしてめくる音が止んだと思ったら今度は鳰が口を開く。
「あーあー、聞こえてるッスか?」
「聞こえているぞ」
「えーと、アンタが以前連絡してきた時からもう何年も経ってるんで、どこから話せばいいもんか分かんないッスけど」
鳰はそう前置きすると嬉しそうな声色で続けた。
「ウチはもうすぐ休暇とって目一さんと旅行行ってくるッス!」
「目一?」
聞き慣れない名前に涼が眉根を寄せる。
「理事長ッス!カッコ元!!」
「黒組主催者」
「そうッスよぉ!」
言われてからではあるものの、自身の心酔する相手の名をすぐに思い出した涼に向かって、鳰は満足そうに相づちを打つ。
涼が黒組を訪れたその日の夜、すぐに黒組では裏オリエンテーションなるものが開かれた。
黒組のルールやターゲット、報酬はその時初めて聞かされた。東が一ノ瀬の守護者となる事を宣言したのもその時だ。目一とやらは、確か途中で鳰がお伺いを立てていた相手だと記憶している。
そして自分が初めて香子と出会ったのも、その日の朝のことだった。
思えば、あの頃から結構な時間が経ったような気がする。
今自分が話している鳰と、一緒に住んでいる香子。
それ以外の元クラスメートは、今どうしているのだろうか。
「……どうせだから、他の元参加者の話でもしましょうか?こんな機会だし」
「分かるのか?」
「まずまずって所ッスけど」
涼の心中を察したのか鳰が話題の提供を申し出る。
涼がその誘いを二つ返事で承諾すると、受話器の向こうからはまた同じように紙をめくる音が聞こえ始めた。
これは鳰が持っているスケジュール帳か何かをめくる音なのだろうか。
「……まず、兎角サンと晴から行きましょうかねェ」
鳰はスケジュール帳らしきものをめくりながら続ける。
「あの二人は、とっくに結婚して同棲中です」
「……まあ、そうだろうな。もう結婚までしている事には驚いたが」
「晴のお願いで色々可能になりましたからねェー」
鳰はページを繰る手を止めて、現状を面白がるような、あるいはひやかすような声色で言う。
自分が学園を去る寸前、既に東は一ノ瀬をとても大切に思っているように涼は感じていた。
一ノ瀬の方も東をそういった目で見ているかと言われると怪しい点があったが、そういった感情を抜きにしても仲睦まじくしている場面は多々あったし、自分が暗殺を仕掛けた際の連携にも眼を見張るものがあったから、涼はあの二人はいずれそうなるかもしれないと読んでいたのだった。
「お次は2号室の二人ッス。春紀サンたち……ああ、春紀サンと伊介様。あの二人、まだ交流はあるみたいッスよ」
「あるみたい、とは?」
言葉を濁した鳰へ問いかけると、鳰は重い口を開くようにして苦々しげに言った。
「春紀サン、こっちの業界から足洗っちゃったんスよ。だから断片的にしか情報は入ってきてなくて」
無論ウチが本腰入れて調べ始めれば、こんなのオチャノコサイサイッスけどー!
もったいぶった割につまらなそうに言った鳰は、一転して電話の向こうで声を張り上げる。
「……でも、なーんかほっといて欲しそうだし、放っておくべきかなー…………なんつって!」
「ほう。走りにしては気がきくな」
「ウチはいつでも気ィききまくりのビューティー鳰ちゃんッス!!」
涼が控えめに褒めると、鳰はさらに楽しそうな声色で声を張り上げた。
その陽気さは黒組時によくしていた、指をこちらに向けてポーズをとる所を想起させるのに十分な陽気さだった。
「そんでー3号室はー、首藤サンと神長サン。……神長サンは、どうせ首藤サンのところで匿うとかしてるんでしょ?」
「……いや、その」
急に話を振られた涼は思わず言葉を濁す。
それを聞いた鳰は電話の向こうで大げさに驚いた。
「うっそ!首藤サンは全然関与して無いんスか?! じゃああの劣等生まだ一人で戦ってるッスか!?」
鳰は驚きのあまりまくし立てるが、涼はどうにも返す言葉を見つけられずにいた。
香子は確かに涼の家にいる。
しかし涼は香子のことを匿っているわけではなかった。
だから涼は、鳰の想像をやんわりとだが否定したのだった。
「……む?香子ちゃんは、まだ戦っているのか?」
「みたいッス! というより、少なくとも死んではないって感じッスねえ」
話題そらしのように白々しく尋ねる涼を知ってか知らずか、鳰は香子について自分が知っている限りの情報を打ち明ける。
鳰の言うことには、死体があがっていないから、少なくとも死んではなさそうだと言うことだった。
聞く限りでは香子が自分と一緒に居ることもまだ広まっていないようだ。
外に出ているあの人が今の話を聞いたらどう思うだろうと考えると、話を聞いている間、涼は頬を緩めずにはいられなかった。
「生田目サンと桐ヶ谷は入院していた病院の記録までしか残ってなかったッス。でもまあ退院までは確認したんで、多分生きてはいるでしょ」
「……そうか。あの二人は生きていたか」
二人の安否を確かめられた涼はほっとした気持ちになって溜息をつく。
在学中の二人は、とにかく相手に対して「どう思われているか」を必要以上に気にした結果、ぎくしゃくとした会話や応対を続けていた。
まるで若い頃の自分たちを見ているようだと、涼は老婆心から何かとアドバイスじみたものを伝えたりしていたのだが、あんなことになってしまって残念に思っていたのだ。
「それに記録不明つったって、あの二人は目立ちますからねェ。現にあの二人の退院後から、二人と思われる目撃例がそこかしこから聞こえてきたッス」
鳰はからりと笑いながら言う。
宝塚然として長身麗華な生田目と、庇護欲をそそる外見の桐ヶ谷。
確かにこの二人の組み合わせは人の目を引く。
文化祭の時は残念な結末を迎えた彼女達だったが、生きていくことを赦された今、互いの全てをさらけ出した今ならば、きっと二人で歩んでいくことが出来るだろう。
「武智サン達はー……っと……実はー……一番よく分かってないッス」
「達と言うと……武智と剣持か?」
「そうそう」
刑期を修め終わって、もう名前を変えて武智サンは出てきてると思うんですけどねェ。名前が変わってるし、あの人だけは公的機関に預けちゃったから、中々追跡調査が厳しくて。
鳰は乙哉について、現状が分からなかった理由をつらつらと述べた。
「……剣持は?剣持の方は、特にこれといって障害らしきものは無いように思うが」
「……それが」
しえなについて尋ねられた鳰は、急に声を潜めて言った。
「…………行方不明?」
「そうなんス」
数ヶ月前に捜索願が出されたらしい。
届けを出したのは実家の家族だった。
しかし実際に調査を開始してみると、既に半年以上前から仕事も休んでいた事が分かったのだ。
休暇届はしっかりと出されていたから、ますますことの発覚が遅くなったのだろう。
「だから、もし黒組の時みたいに何か事件に巻き込まれてたとしたらァー……」
「もしかしたら、ということも」
「ありえちゃうッスね」
鳰は涼の言葉の先を察して肯定する。
武智といい桐ヶ谷といい、今回の事といい。
彼女はよくよく厄介事に好かれる星に生まれているのだろうか。
本人が聞かれたら怒りそうな物言いだが、それでも涼はしえなのことを、一種の悪運のようなものも持ち合わせているように感じていた。
だから最悪の事態は免れて、その代わり最悪の二歩手前ほどの事態に陥っているかもしれない。
つくづく運のない者である。
「英サンの方は、聞かなくても分かるッスよね」
「社長を任されたグループの中の一社の業績を伸ばした、か。いつぞや女社長が何だとネット上でニュースになっていたな」
「そうッス!」
鳰は良く出来ましたと言わんばかりに言った。
「番場の方は? 今どうしているか分かるか?」
「ああ、番場」
急かすように聞く涼へ、鳰は悪びれもせずおちゃらけた様子で答える。
「番場はァー……なんとぉ、二重人格が治りました! あと、あっちもあっちで色々あったみたいで、結局あそこも交友関係は続いてるっぽいッスよ」
つっても、生田目サンと桐ヶ谷みたいになれてるかは知らねーッスけどお!
鳰はそう茶化すように付け足して言ったが、涼は案外なれているかもしれないな、とうっすらと考える。
英は黒組の時からかなり番場に随分執心していた。
文化祭の時も、自分が暗殺を仕掛けた時もそれは変わらなかった。一ノ瀬を殺すために呼ばれていたというのに、英はターゲットの一ノ瀬よりも番場を気にかけていたように涼は記憶している。
番場の方はそれほど英には執着していないように見えたが、何年も経った今なら、当時とは違う関係になっていてもそう驚くことではないだろう。
ましてや今も交友関係が続いているとなれば、そうなっている可能性も大いにある。
「……まっ、そんな感じで。鳰ちゃんはさっき言った通りッスよ」
「……そうか。皆、元気にやっているようだな」
一通り話を聞き終えて、涼は小さく溜息をつく。
話を聞いていただけだと言うのに、随分黒組の頃が懐かしく感じてしまった。
他に自分が抱えている過去達と比べてもまだ最近の事なのに、と涼は内心でひそかにごちる。
「首藤サン本当に……みんなのおばあちゃんみたいッスね」
事情を知る鳰は平然と言った。
「もうおばあちゃんだからな」
言われた涼は軽く笑いながらさっきの言葉を繰り返す。
鳰には既に自分の病が知られているため、変に自分を取り繕う必要もなく、気楽に応対出来るのがありがたかった。
「それにしたって……人は変わるものだな」
涼は大きく嘆息する。
結婚しているもの、足を洗ったもの、もう一度やり直そうとするもの、運命を振り切ったもの――それに、なんの巡り合わせか再開を果たしたもの。
それなりに苦労しながらも、皆自分の進むべき道、進みたい道、進みたかった道を選びとってその道を進んでいるらしい。
成長とも呼ぶべきその変化を、そんな時代をとうに過ぎ去った涼は多少羨ましく感じてしまう。
「ありがとう走り。面白かった」
「いえいえー、これも仕事ッスから!」
涼が楽しませて貰った礼を言うと、鳰はあっけらかんとしてお互い様だと返す。
「ウチも、こういう話久々に出来て楽しかったッスよ」
「久々?」
「そうッス。皆最近は忙しいみたいで中々、ね」
眉間に皺を寄せて尋ねた涼へ、鳰は淋しそうに言った。
「昔は今よりもみんな連絡くれたんですけどねー。なんだかんだ。……でも、もうミョウジョウやこっちの世界に関わりたくないって人もいましたし」
そもそも、首藤サンみたいにこういう時しか連絡しない人や、神長サンみたいに今も連絡先が掴めない人だっていますしねェ。
鳰が遠回しに涼達を皮肉ると、涼は「すまなかった」と静かに鳰へ謝る。
「……もう少し、連絡を入れるべきだったか。淋しかっただろう」
「ええまあ…………ほんのすこぉーしぐらい、は」
寂しさを指摘された鳰は怒るでもなく悲しむでもなく、少し困ったようにしながら、素直に寂しさを肯定する。
黒組で裁定者を務めていたときは決して本心を悟らせるような事を言わなかった鳰だが、彼女もまた、時の流れとともに変わっていったのかもしれない。
「そうか。……本当にすまなかった」
「本当ッスよ……」
電話の向こうで意気消沈している鳰を涼が慰める。
詳しく話を聞いていくと、どうやらその目一とやらとは最近殆ど連絡が取れていないらしかった。
それは大変だったろうと涼が更に慰めの言葉をかけると、鳰は「仕事だからしょうがないんですけどね」とやや落ち込んだ声色のまま返す。
「それでも、割り切れない事はあるだろう。たまにはきちんと相手に言うのも大切だぞ」
「それはそうかもしれないッスけど……あまり目一さんを困らせても駄目ッスから」
鳰は困ったように言った。
じゃあ待つしかないなと涼が言うと、鳰はまた困ったようにそうッスねえ、とだけ言う。
そうやって涼が鳰を慰めていたのも、ほんの束の間の事だった。
不意に玄関の戸が開かれた音がして、同時に涼を呼ぶ声が聞こえる。
出かけていた香子が帰ってきたらしい。
「っあー! 首藤サンの嘘つき! やっぱり神長サンと一緒なんじゃないッスかあああ!」
ただいま、という香子の声を耳聡く聞いていた鳰は瞬時に立ち直って思ったことをぶちまける。
「そうだな。まあ、一緒だな」
「さっきは否定したのにー!」
「匿っている訳では……その、ないからな」
「首藤。他に誰か居るのか」
「……おっと」
矢継ぎ早に話しかけてくる鳰へ付きっきりで受け答えをしている間に、声を聞きつけた香子が音もなく近づいていた。
側に来た香子は困惑と怒りが半々に混ざったような顔をしながらこちらを睨んでいる。
恐らく電話の相手が想像出来なくて、もし自分の敵だったらどうしようかと考えあぐねているのだろう。
「じゃあな。……お前も達者でな」
「うわー! うわー! 首藤サン誤魔化そうとしてるっしょ!? 首藤サンはそういうキャラじゃないと思ったのにぃ!!」
「旅行、気をつけて行ってこい」
鳰はまだ話し足りない様子だったが、背中に香子の突き刺さるような視線を感じていた涼はそれだけ言うと強引に電話を切ってしまう。
電話が切れたことを確認した香子は静かに涼へ尋ねた。
「……今のは?」
「香子ちゃんは、誰からかだと思ったかな」
「……お前」
ふざけるように聞き返した涼を香子は鋭く睨む。
香子の反応を見てこれ以上はぐらかすのは良くないと判断した涼は、あっさりと香子へ電話の相手の事を喋ることにした。
「……走りじゃよ。ちょっと聞きたいことがあっての。喜べ香子ちゃん、ワシらのことはまだ伝わっていなかったようだ」
ついでに相手どころか内容まで喋ると、はぐらかした割にあっさり答えられた香子の方が拍子抜けしてしまう。
「……何だ。それならはぐらかさずに、先に言えば良かったのに」
相手が知り合いだと分かった香子は静かに胸をなで下ろす。
それを目敏く見ていた涼が目を細めて「香子ちゃんの居場所をワシが漏らしたと思ったのか」と尋ねると、香子は分かりやすく声を荒げた。
「違う……!」
「ならどうしてあんなに怒っていたんじゃ」
涼が追い打ちをかけるように尋ねると、香子は更にヒートアップして吠えるように叫んだ。
「怒ってないッ!!」
「……そ、そうか」
吠えられた涼は思わずたじろぐが、香子はそんな涼を無視して続ける。
「……あれはただ、お前が誰と話しているのか気になっただけだ。別に怒ったり不安になった訳では……っておい、聞いてるのか首藤ッ!!」
「……聞いているぞ、香子ちゃんや。だからそう声を荒げるな」
 「ッ! だから孫扱いはやめろとあれほど……!」
聞かれてもいないのに理由を喋りはじめた香子を見て大体の事情を察した涼は、背伸びをするようにして香子の頭を撫でる。
 撫でられた香子は子供をあやすように扱われて憤慨するが、それでも撫で続ける涼に押し負けるように、時間と共に少しずつ大人しくなっていった。
4.
「……おっと」
手元のアイスが溶けてひとしずく手のひらに垂れたことで、涼は現実に引き戻された。
眼前には未だ花を成さない彼岸花達が生えている。
まだ七月だ。開花には早くてもあと二ヶ月はかかるだろう。
それまでに後いくらの時間を感じる必要があるのだろうか、と涼はふと考えた。
体感としての時間の流れは遅いのだろうか、それとも速いのだろうか。
老人になってからは時が経つのが早いと聞くが、何せ自分は老人になるまでが長いので、あとどのくらいの時間が体感で流れるのか全く検討がつかなかった。
それでも、きっと今のような日々が死ぬまで続いていくのだろうということは分かった。
あの人が居たって居なくたって日々は続いていくし、自分は死ぬまで生き続ける。
それは自らの死に納得するために自分で選んだ道だった。
そこに一抹の寂しさはあれど、後悔はない。
あの人の死を内に抱えて、弔いながら、思い出に寄り添いながら、最期の瞬間まで生きていくこと。
それもまた自分の運命なのだろうと考えて、涼は静かに目を閉じた。
およそ150年後の首藤さんが黒組の頃を振り返ったりする話、でした。
首藤さん本人の特殊な体質のせいで、うっかりしてるとつい三号室SSでは悲劇的な話を書きそうになるんですけども
彼女自身は最終話の後日談で、病を受け入れて生きていく決心が出来たはずなんですよね。
だからもし寿命差に悩むとしても、それはきっと首藤さんの仕事じゃなくて神長さんの仕事なんでしょう。
そうやって焦っていく神長さんを年上らしく諭してあやしての首藤さん、いつか書いてみたいなぁ。