〇〇くださいっ!
「ただいま」
「おお、おかえり」
土曜の遅番を終えて帰って来た香子が最初に感じたのは、かすかにする好物の甘ったるい匂いだった。
この時間には寝ているはずの首藤がなぜ起きているのだろうとか、その割には自分を出迎えに玄関へ来た首藤は寝間着姿、要するに寝る寸前の格好をしているとか。そういったことよりも先にその匂いに気付いてしまったのは、香子がこの特別な日に少しだけ期待をしていたことも理由としてあったのかもしれない。
本人に直接言うつもりは毛頭ないが、香子は涼の事を、何を考えているか分かりにくい時はあるがあれで意外とよく気がつく奴だと思っている。
だから自分がそれを好きなことも既に知っているはずだし、この日が何の日か知らない事もないだろうと考えて、約束こそ取り付けていなかったものの、心のどこかで少し期待してしまっていたのだった。
「おかえり。遅かったな」
「週末だからな。今週分の報告をまとめていたら遅くなった」
「それは大変だったのう……あ、コートはこっち」
「頼む」
香子は言われたとおり脱いだコートを涼に渡すと、涼はそれを受け取ってハンガーにかける。
コートを脱いだ香子は続いて靴を脱いだ。
そうして上がり框へ足を踏み入れると、持っていた紙袋がカサリと音をたてる。
「む……何だ、それは」
紙袋に気づいた涼が尋ねると、香子は仕事場で貰ったんだけど、と答えた。
「中身は何かわからない」
「分からない?」
「帰り際このまま渡されたんだ。危険なものではないと思うが」
「……ふむ。ちょっと貸して」
素直に紙袋を差し出すと、涼は受け取ったばかりの袋を少し開いて中を覗き見る。
中には長方形の箱が入っていた。
何が入っているかの記載はフタ部分には見当たらない。紙袋ごと持ち上げて底を見ると何かラベルが貼ってあったが、細かい字なので香子からは何と書いてあるかよく分からなかった。
涼はそれを読むと微かに眉根を寄せて、これは冷蔵庫に入れておくぞ、と言って先に台所の方へ歩いて行ってしまう。
それを見た香子も、後を追うようにそそくさと台所へ向かった。
香子が台所に着いた時には、既に包みを仕舞い終えたらしい涼が椅子に座って香子を待っていた。
涼は遅れてきた香子にむかって、先に夕食にするか風呂にするかを尋ねる。
「用意はしてあるからどちらが先でもいいぞ」
「どっちが先の方がいいかな」
「お腹が空いてないなら、先に風呂へ入った方が良いと思うぞ。今日は寒かったから」
体冷えてないか、と立ち上がった涼が香子の側へ来て身を案じるが、香子はそれをやんわりとはねのける。はねのけられた涼は最初不思議そうな顔をしたものの、直ぐに持ち直して先程まで座っていた椅子へと座り直した。
香子はそれを見送ってから、どこから切り出したものだろうかと冷静になる。
あまりストレートに言い出すと涼の気を揉ませてしまうような気がした。
「……あの、首藤」
「何じゃ、香子ちゃん」
「今日が何の日か、知っているか」
まずは遠回しに伝えてみようと考えて、香子はやんわりと尋ねる。
「今日?……ああ、バレンタインデーだな」
「…………そう、なんだが……」
涼にあっさりと答えられて、香子は言葉を失ってしまった。
これ以上押していくとなると相当に言葉を選ばなければ相手を傷つけてしまう。
かといって、長々と思案するような猶予はもう残されていなかった。
時計を見ると既に明日が間近に迫っている。
今日中に涼からそれをもらいたいのなら、迷っている時間はもう片手で足りるほどしか残されていない。
香子は覚悟を決めて涼に話しかけた。
「首藤」
並々ならぬ香子の様子に、名前を呼ばれた涼がびくりと体を強張らせる。
「今日は、バレンタインだな」
「……そうじゃな」
「……その、……」
「む?」
一旦言いよどんだ香子に涼が懐疑的な目を向ける。
香子はその視線にひるまず、声を振り絞るようにして言った。
「……っ……チョコレート、ください」
静まりかえった四畳半に、香子の声はよく響いた。
言い切った香子は今になって恥ずかしさが増してきたのか、黙って顔を伏せている。
初めは目を丸くしていた涼も、ことの様相が分かると次第に肩を震わせながら笑い始めた。
「何を言われるかと思ったら……そうかそうか……香子ちゃんはそんなにワシからのチョコレートが欲しかったか……!」
目尻に涙をためた涼が香子の背中を勢い良く叩く。
否定できない香子は黙って顔を赤くしたまま叩かれ続けている。
「まあ良い。……そう欲しがられて、悪い気はせんでの」
ひとしきり笑った涼は息も絶え絶えに台所を出て行くと、今度はラッピングされた箱を持って台所へ帰ってきた。
香子は差し出されたそれを受け取りながら、苦し紛れのように毒づいた。
「あるなら最初から出せばいいものを……変に心配しただろうが!」
「ほう。心配したのか」
「……っ!」
カッとなって口から出た言葉の揚げ足をすぐさま涼にとられてしまい、香子は更に縮こまってしまう。
そのくせ揚げ足をとった涼はしたり顔をするでもなく、未だに笑っているのでどうにも居心地が悪い。
「そんなに欲しいなら、先に言ってくれても良かったのに」
約束を持ちかけてもおかしくない間柄だろうに、と涼は続けて言ったが、言われた香子は釈然としない顔をしていた。
香子が直ぐに言い出せなかったのには、もちろん恥ずかしさもある。
しかしそれに加えて、自分から言い出すことで、涼にそれを贈るよう催促するするような形になるのも気が引けていた要因だった。
いくらねだっても咎められない仲だとしても、このような行事は相手に贈ることを強制するべきものではない。
あくまで首藤の自主性というか、そういったものに任せておきたいという気持ちもあったのだ。
「……こういうのは、強制するようなものではないだろう」
「真面目だな。香子ちゃんらしい」
からからと笑いながら涼が言うと、顔を合わせづらいのか、香子はふいとそっぽを向いてしまう。
涼はそんな香子を見ながら仕方ないのう、と呟くと、続けて今あげたチョコレートを食べてみてくれないか、と言った。
「今か?」
「出来ればでいい、が」
紆余曲折はあったが念願だった物を手に入れたのだ。今食べてくれないかと言われて、香子に断る理由は無かった。
香子はさっそくラッピングを剥がして蓋を開ける。
その中に入っていた十数個のうちの一つを適当につまんで口に入れると、しつこくなくちょうどよい甘みが舌に広がった。
「……美味い」
「そうか?なら良い。チョコレートはあまり作った事がなくてな」
胸をなで下ろすような仕草をした涼に香子はゆっくりとかぶりを振って答えた。
「そんなことはない。十分美味しい」
そう言って香子は入っていたチョコレートをまた一つ口に入れた。
全て形も整っているし、ラッピングも丁寧。味も申し分ない。
この出来なら普通に出してもいいはずだ。
それなのに何故涼がそうしなかったのか、香子は現物を見ると更に分からなくなった。
「何でこれをすぐに出さなかったんだ?」
他のチョコを食べながら香子が尋ねると、涼は困ったような顔をして言った。
「さっき、香子ちゃんが持って帰ってきた包みがあったろ」
「あったな」
「あれの中身もチョコレートだったんじゃよ。それも箱一杯の」
涼は机の上で組んでいた指を組み直して続ける。
「一度見てくるといい……流石にあの量を見てからだと、ワシも悩む」
そう言って涼は冷蔵庫を指差した。
香子はその言葉通り冷蔵庫へ件の箱の中身を見にいく。よく見てみると意外に大きかった箱自体にも驚いたが、その中身にも驚いてしまった。
涼の言う通り、箱の中身はほぼチョコレート一色だったのだ。
「恐らく、香子ちゃんの知らないうちに好物の話が広がってたんだろうな……話を聞いた人らが、ならついでに香子ちゃんにもあげようと思って、同僚にでも託していったんだろう」
それが次第に多くなってきて、それを収納するため、それと誰宛か分からなくならないようにと、入れるところを決めていたのがあの箱だったのだろう。
香子はそれを知らないまま、帰りにただ渡されて帰ってきたのだと思われた。
「最初は何の嫌がらせかと思ったぞ」
「……すまない」
「ま、いいんじゃよ。香子ちゃんには悪気が無かったのだろう?」
涼はそれでも申し訳なさそうにしていた香子を慰める。
嫌がらせも何も、中身を知らなかったのではしょうがない。
「……それにしても、香子ちゃんがあそこまでするとはな。チョコレートならたんと貰ってきておろうに」
慰めてもなお未だにしゅんとしている香子を見かねたように、涼は別の話題を振った。
「……それは」
香子はまた言い淀んだ。
こういう行事で一番欲しいのは、いわゆる本命からのものだ。
たとえ数を貰っていてもそれは変わりようがない。
「……バレンタインだぞ。お前から貰えなくて何の意味があるんだ」
「…………香子ちゃん、時々凄いこと言うよな」
「茶化すな」
こっちは首藤から貰えるかどうかという、たったそれだけの事についさっきまでひたすら心を砕いていたのだ。
そんな理由でやきもきしていたこちらの身にもなって欲しい。
そう声を大にして言いたかったが、涼本人に落ち度がある訳ではないので、香子は黙って貰ったチョコレートを食べる事に専念する。
また中から一つ選んで口に放りこむと、さっきまでと違う味がした。
「……いくつか味の種類があるのか?」
「ちょっと頑張ってみたぞ」
机に肘をついていた涼はにんまりと笑って答えた。
外見は皆同じように茶色をしているので、どうやら中に入っている部分を変えているらしい。このチョコレートは、見た目よりかなり手間がかかっている。
手間がかけられたと分かるもの、それが自分に向けて作られたものだと思うと、香子はなんとなく嬉しい気持ちになった。
それから香子はしばらく貰ったチョコレートを食べ続けていたが、ふとホワイトデーの事を思い出して、何を返せばいいかと涼に尋ねた。
「首藤の好きなものを返せばいいだろうか」
チョコレートは香子の好物だ。
下手に何か贈るよりは、自分が涼に贈られたように、相手の好物を贈った方がいいかと考えた末の言葉だった。
「いや、それはいらない」
涼はそんな香子へきっぱりと返す。
これほどきっぱり断ると言うことは、何か別に欲しいものがあるのだろうか、と香子はかすかに思った。
「なら何がいいんだ?」
改めて尋ねた香子に、涼が待ってましたとばかりに答える。
「飴、かの」
「…………飴?」
「おう」
思いもよらない簡素なものを要求された香子は面食らってしまう。
こんなに手間のかかった物を自分にくれておいて、お返しは飴でいいとはどういうことだろう。
腑に落ちず首を傾げる香子とは対照的に、涼は照れたように笑っている。
「……そんじゃ。もう遅いから、涼先に寝るわ」
「あ、おい」
香子にチョコレートを渡し終えて、用は済んだとばかりに涼は自室へ行ってしまった。
未だ合点のいかない香子だけがその場に取り残される。
「あいつ……何だったんだ」
涼が消えていった先を見つめながら香子がぼやく。
けれどそのぼやきに答えてくれる人も居ないので、手持ち無沙汰になって部屋の中をきょろきょろと見回してみると、隅にまとめてあった古雑誌の中に真新しい雑誌が挟まっているのを見つけた。
「……何だこれは」
引っ張り出して眺めてみると、それはいやに浮かれたような色使いの表紙の雑誌で見出しには『バレンタイン特集』などと銘打たれてある。
中を見ると湯煎の仕方からラッピングまで丁寧に作り方のレクチャーがされていた。
つまり首藤はこれを見ながら手元のチョコレートを作った可能性があるのか、ということに気づくと香子は何となく涼に勝った気になる。
それを気取られないよう丁寧にこれを始末したのだとすると、あれで可愛いところもあるじゃないか。
しかし次のページを見た瞬間、香子はそんなことは無かったと赤くなった顔を手で押さえながら呻くことになる。
それはホワイトデーについて、つまりお返しについてのコラムが掲載されたページだった。
――お返しのセオリーと言われるクッキーは、実はあまり良くありません。全くのお友達や本命ではない人からもらった場合はそれで良いのですが、本命からもらえた場合はクッキーはタブーです。
何故ならクッキーに込められた本当の意味は『あなたとは友達でいましょう』だからです。
では代わりに何を贈ればいいか。見事本命からチョコレートをもらえた場合は相手にキャンディを渡しましょう。
ホワイトデーに贈られるキャンディに込められた意味は
『私も貴方の事が好きです』――
3号室バレンテインデーSSでした! 今見てもちょっと恥ずかしい!
私は基本こういう、もだもだしてて口から砂糖が出そうなシチュエーションが似合うカップリングが好きです。イベント時はこうでも普段は静かにイチャイチャしてる感じだとなお良し。
が、好きなシチュエーションの割に香子ちゃんがくださいって言うまでのタメがいまいち効いてない印象。
でも香子ちゃんの「実際に口に出すことの3倍は色々考えてそう感」は上手く書けたかなあと自分では思っています。
香子ちゃんはこういう所が優しいし可愛い。
好きなもののどういった点が好きなのか。また、そこを明確にして、かつ読んでくださる人に分かって貰えるような文章が書けるようになりたい。