最初の方で絵名が「基礎も出来ない」みたいな話をしてるシーンがありますけど、逆に言えば
基礎さえ会得できれば、絵名の絵ってすごく伸びるんじゃないのかな、という気がします。
絵の基礎、つまりデッサンがうまくできない。それはものの見方や陰影、立体感、線のタッチといった根本的な部分が弱いということですが、
ものの見方が細かくなかったり、それを絵に落とし込むことが出来ないと何が起こるかっていうと。
モデルにある1mmの歪みをとらえられないままだと、イラスト化したときに生じた1mmの歪みも存在を認識できないし
1mmの歪みがゴロゴロしてる中で、1.2mmの歪みを作っても「表現として中途半端」ってことが分からないんです。
1mmの差が認識できないままなら、どれだけ頑張っても5mmや3mm間隔の精度しか出せないので
求められる解像度や繊細さが上がれば上がるほど描けなくなっていきます。
ただ基礎さえできれば、描きたいこともちゃんと持ってるんだから、一気に上達しそうな気もします。
現状でも絵名はいわゆる個展を開くような、自分のセカイ観やタッチを確立しているタイプの絵師には向いていないだけで
クライアントの要求を汲み取って、それに答えるような一般の商業絵師としては十二分に向いてると思ってるので
進級問題と合わせて、彼女がどの「絵の道」に進むのかは楽しみにしています。
まふゆがちょっとずつ自分を取り戻しているのは前々回イベント(夕闇)から継続しているので、あんまりそこに言うことはないんですけど
どっちかというと彼女の生来の性格というか、欠点も見えた気がします。
今のまふゆは
・自分がお母さんの優しさを受け入れたくない、嫌に感じてるのは分かる
・でもお母さんが優しさからものを言ってるのは分かる
って感じで二進も三進もいかなくなってますが、元々根拠がないと話を押し切られちゃったり、断れないのかな、という気がします。
ユニストでもミラージュでも「自分がこうして欲しいという”だけ”」「相手にそうする(させる)だけの理由がない」願望は、
言えないor体調が悪くなってようやくねだっていましたが……。
進路について、母親に「医者じゃなくて看護師になりたい!」って言えなかった最大の理由は、
「私がそうしたいから」以外の理由、正当性を用意できなかったからなのかな~という気もします。
ただ今回の東雲家訪問で、おそらく「(絶望にも深度や程度があるように)優しさにも種類や幅がある」ってことを
ふんわり会得したっぽいので、ここから「やっぱりお母さんの優しさはちがう優しさ」って路線に行くのかな。
まふゆ自身がやたらガツンと言える性格になる、というよりは。
カネリコ→ミラージュで奏が幼少期に抱いていた思いを再発見すると、まふゆも幼少期のあたたかい記憶を思い出して、
絶望底→迷い子で奏がつらい過去を話せるくらいに克服すると、まふゆもつらい記憶を思い出せるようになる
っていう流れがあったんですけど、前回のEmm(一歌イベ)で奏が知った「優しさにも色々なかたちがある」っていう事が
今回のまふゆでも描写されてたので、この流れは意図的なのかもしれないなーと思ったり。
ただし、この説にのっとると「まふゆに笑ってほしいなら、まず奏が笑えるようにならなきゃ駄目なのでは?」ってことになるので
スポジョイ奏の「わたし……幸せになっていいのかな」発言がいっとう重くなります。
奏が幸せを受け入れられないままだと、奏に手を引かれるまふゆも幸せを認識できないままでは?ということになるので。
今回の話をなぜ奏まふでやらなかったか?って言うと、順調な家庭を教えるのは奏じゃ無理だったって所に尽きると思います。
このテーマについては奏も学ぶ側だと思うので、特訓前カード絵が望月さんとの一幕っぽいのは分かる。
でもストーリーにはもうちょっと出てきて欲しかったなって思いますね……もちろん瑞希も出てきて欲しかった!
私は奏まふのオタクのくせに、初見ミラージュで絵名と瑞希が蚊帳の外だったのに対して
「引き伸ばしたサイスト読まされてんのか?これユニットの話か??」って感想を抱いたタイプなので。